11/24㈭ 愛

理念は

利用者の心身両面の幸福を追求するために

個別性を重視し、安心安全を通して

愛のある看護を提供する。

そして、みんなから愛されるステーションへ

 

幸せとは何かや、様々なことに対して追求することがあると思うが、

愛に愛情に最終的にはたどり着くのではないだろうか、、、

 

愛は脳を活性化するという本を読み本当にそう思うようになっている。

11/22 火曜日

今日管理者の集団研修のため

千葉県中央区に行かなければならなかった。

15:30に緊急で電話が入り、今すぐ患者のもとに行かなければならなかった。

しかしながら、中央区はとても遠く電車で一時間半ほどかかるため、タクシーに乗ることにした。

信用を無くすなんて一瞬であるし、とても大切な患者であるためすぐに向かいたいという気持ちが強かった。

しかし、タクシーの運転手は65歳を過ぎているおじいちゃんで、急いで欲しいと伝えても法定規則のスピードしか出さない方だった。

流石に高速に乗っているときは急いで欲しい理由とスピードを上げて欲しいことを強く言ったが、「焦って、事故を起こしたら困りますからね、、、」という返答だった。

普段は温厚な私だが、流石に腹が立った。

本当に腹が立った、、、、今思い出しても腹が立つ。

 

サービス業はどこの業界でも同じだと思うのだが、どれだけのサービスを提供できるかが非常に重要であると考える。

どこまでいってもサービス業であるもん。

 

なんでこのようなことが起こったのか考えた。

再度サービスとは何かということを認識するためだと感じた一日でした。

意識

脳内で起こる細胞の電気現象から、一体どのようにして、私たちの世界についての意識的経験や、それをもとにした自己意識や抽象的な思考、内省する能力などが生まれてくるのだろうか。

これは大変な難題である。

この問いに答えるには、肉体的な世界と、精神的な世界を橋渡しすることが必要となる。

神経科学が進歩を遂げるにつれ、意識とは何か、それがどのようにして生じるのかについての理解は深まっている。

例えば、様々な異なる意識状態を、それぞれ脳内の特定の場所における活動と関係づけることが可能となっている。

 

 

 

 

 

意識の性質

意識に似たものは他に存在しない。

思考、感情、あるいは概念は、宇宙の他の部分を構成する物理的な実体と異なっているように見える。

心の中の内容は、空間的にも時間的にも定めることができない。

それらは脳内の特定の物理的な活動により生じるようであるが、その活動自体が意識を作り上げている。のか

それとも、脳内活動は私たちが精神や意識と呼ぶ完全に別のものと相互関係している。のかは

わかっていない。

もし意識が単なる脳の活動でないならば、物質的な宇宙は単に実在の一面に過ぎず、

意識は物質的な宇宙とは全く異なる法則が適用されるパラレルな実在に属していることになる。

 

意識は以下の3種類に認識状態に分類される。

瞬間の意識:脳は時々刻々と生じる出来事を記録し、それに対して反応するが、記憶には留めない。

自覚した意識:出来事が記録され、かつ記憶に残る。

自己意識:出来事は記録・記憶され、本人もそれを自覚する。

 

 

主体と意図

主体とは、自分の行動を自分で支配しているという感覚である。

行動は私たちの意識が起こしているように感じられるが、これは間違っているようだ。ベンジャミン・リベットの有名な実験によって、ヒトの脳はその人が意識的に行動しようとする前に、無意識のうちに動作を計画し遂行することが明らかになった。

これは、私たちの主体の感覚と「意思」の決定が錯覚であることを示す説明として、しばしな用いられる。

私たちの主体の感覚は、自分の行動に対してではなく、他人の行動に対して早めの警告するために進化したのかもしれない。

私たちは自分自身のことを動作の主体であると感じるために、他人にも動作の主体があることが直感的にわかる。

ゆえに、相手の意図を読み取り、行動を予測することができるのである。

目が見えない人に対して、青い空の青色をどのように伝えたらいいか

看護学生の頃、

このお題に対してよく話し合ったものだ。

それと言って答えは出なかったけれども、それでも本当に目が見えない人を想像し、伝えることの難しさを感じた。

今も伝えることの難しさについては非常に感じる。

人は話を聞いているようで聞いていないから、どれだけそのことをイメージさせるかが重要である。

 

ガンターミナルの方に対して、言葉ひとつひとつ慎重になっているが

イメージをわかりやすい言葉でゆっくりと伝えていきたいと思う。

思考

思考なくして、この複雑な世界で物事を決めることはできない。

考えるからこそ、ヒトは自分の行為がもたらしうる顛末を頭の中で想像し、検討することができるのである。

そのためには、心の中にいくつものアイデアを保持し、あれこれ考えをめぐらさなければならない。

思考とは、能動的、意識的、かつ注意を要求する活動で、いくつもの脳領域がその過程に駆り出されている。

創造性や、自分が経験したことに説明をつけたがることなどのヒトに特有な能力や傾向も、思考してはありえない。

 

 

 

2つのことを1度にできない理由

2つのことを同時にやろうとすると、脳はあたかもエンストを起こしたかのように止まってしまう。

これは、注意を一方からた方へと振り分けている前頭前野がついていけず、情報処理の空白期間が生じてしまうためである。

脳は、同時に2つの似たようなことをすることができないが、これは、同じニューロンが2つの作業で競合して使われてしまうためである。

例えば、読書をしながら言語を聞き取ろうとしても、使用する脳の領域が重複するために難しいが、風景を見ながらなら簡単に聞き取れる。

 

 

創造性とは、知っていることや新たに見聞きしたことを再構成し、独自の概念やアイデアを生み出す能力のことである。

クリエイティブであるために、ヒトは批評的で、よいものを見極める目を持ち、広い知性を備えていなければならない。

 

 

 

創造の過程

ヒトの脳は常に刺激にさらされているが、そのほとんどは無視されている。

このように情報をシャットアウトすることにより、最も自分に関係のある情報だけを利用できるようになっている。

新しい情報に心を開くことが創造的な過程への第一歩である。

これは、脳がγ波によってもたらされる鋭い意識から開放され、リラックスした状態を示すゆっくりとしたα波を出すアイドリング状態となった時に起こる。

このモードに移行すると、普段なら無視されてしまうような刺激も意識にのぼって記憶と共鳴し合うようになり、新しい有用な考えやアイデアが生まれることがある。

 

 

最近本質な何かと考えている。

結局本質は脳を理解し、脳を使い切ることではないだろうか。

 

 

記憶

ある出来事を思い出す時、かつての体験で働いたニューロンが再び活性化されるが、それは単なる過去の出来事の再生ではなく、再構成というほうがふさわしい。

今現在の私たちを導く情報をもたらすために記憶は存在するのであり、この目的にかなった有意義な体験のみを脳は保存している。

つまり、過去の記憶は選択的で、不確かなものである。

 

 

記憶とは

記憶の能力によって、詩の暗誦や顔の認識ができ、はるか過去の出来事や、自転車の乗り方、車のキーの置き場所を思い出すことができる。

これらの現象に共通しているのは、全て学習を必要とし、部分的または全体的に過去の体験を再構築しているという点である。

学習とは、特定の体験に結びついてニューロンの同時に発火した後、同じパターンでニューロンが同時発火しやすくなる過程である。

この同時発火によってもともとの体験が再構成され、記憶の想起が起こる。

想起することによって、関連したニューロンはさらに同時発火発火しやすくなり、繰り返して再構成される出来事は、ますます思い出されやすくなる。

 

 

記憶の本質

想起の間、脳はその出来事を再体験しているが、その体験は完全に元の体験と同じというわけにはいかない。

過去に思いを馳せて我を忘れている時でさえ、脳は今ここにある意識を保っており、ニューロンの活動は過去のものと全く同じにはならないのである。

むしろ、想起中の体験は過去の体験と現在の状況に対する意識の混合であるといえる。

記憶は思い返すたびに上書きされて行き、思い起こす時はその上書きされた1つ前の体験が心に浮かぶのである。したがって、記憶はだんだんと変化していくことを避けられず、結果的にもとの体験と似ても似つかぬものになってしまうこともある。

 

言語と知覚

言語は単にものごとを伝達し合うための手段ではない。

ヒトが世界を知覚する手段として、言語が用いられているという証拠がある。

例えば、青色と緑色の区別がある言語であれば、青いチップと緑のチップどちらだったかを思い出さなければならないことがあったとしても、その二つを混合することはほとんどないだろう。

なぜならそれぞれの物体に心の中でそれぞれの名札を貼ることができるからである。

青色と緑色の区別がない言語であれば、色を思い出すのは難しくなる。

同じ理由で、アマゾンに住むピラハ族の言語には2より大きい数に相当する名詞がないため、彼らが1列に並べられた4つの物と5つの物を見分けることはまず不可能である。